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「未理解」は愉快だ。

更新日:2024年6月24日

「未理解」と「非理解」は違います。「未理解」は何か希望めいたものがありますが、「非理解」にはなぜか拒絶の冷たさが漂います。そして今の社会ではこの「非理解」の方がより存在感が増しているように思うのです。というのも「理解できない」ことを不安を煽るものとして意識して避けるようになって、例えば映画や小説においては物語のプロットやその行き先がよりわかりやすく明瞭なものが多くなってきたように思いますし、絵画の世界でも抽象絵画よりも具象絵画の方が現象的には好まれています。

 今の社会が災害やテロ、そして国内外からの不安な政治情勢などの影響からなのか、そこからの安全・安定を望もうとする潜在的な心情があるのを認めることには私はやぶさかではありませんが、しかしそれでも私の場合には「非理解」で暗くなるより「未理解」としてそれを楽しもうとしてしまいがちです。なぜなら前向きな「未理解」なものに出会うとき、そこには新しい未知なものに何故かワクワクするような期待感があって、理解できないとしても何故か妙に心の淵に引っ掛かるものがそこにはよく出現する場合があるからなのです。最初は訳がわからない文学や音楽がそうした期待感によってかろうじて拒絶に至らず、結果、何度も試みるうちに徐々に新しい理解が進んだ果てに、今では最高に楽しめるものになってしまったという経験は決して少なくありませんでした。

 これにはそれが能力的に可能な者だけの独りよがりの戯言だと片付けられてしまうのでなく、それに本人自らのちょっとした心意気だけでできることなのかも知れないのですから、「理解不能」をただの拒絶材料にしてしまうだけでは本当にもったいないと思うのです。たとえ「理解できない」ことであっても魅力のある得体のしれないものとやはりどこかでつながっていると期待して、これはひょっとして人気のあるホラー小説のスリルやジェットコースターの非日常の興奮などとどこかでつながっていることであるのかもしれないと実感しています。

 そう捉えれば日常の中に潜んでいる楽しみと通じていると考えることもできて、こうした未知に通じる「未理解」はかなり現実的にリアルなものとして私の感情の上に無理なく重なってきます。そのような意味で言えば例えば行先を定めない私の「流動の絵画」の手法もそうした未知のものと確実につながっているはずなので、前向きな「未理解」を大いに楽しむ術はそれほど難しいことではないと日常の中の実感として私はいつも捉えているのだと思います。


 
 
 

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