これまで日本の多くの職人は(職人に限ったことではありませんが概ね日本人は)どこかで物事の完成度に自分なりのプライドがあって個々の中で独自の基準のようなものを抱えていたように思います。(このことを頑固な職人気質などと呼びました。)その結果、他者からの要請の範囲内で仕事を納めるだけではなく、その要求以上の完成基準で自身の仕事を貫徹することがよくありました。しかし最近は依頼された範囲内を守って仕事を完結させることで満足し、非効率な余剰などは残さないとする姿勢に疑問を感じることも少なくなってしまっています。
こうした最近の姿勢は契約概念に忠実ではあってもそれ以上のものを生み出す余剰は設定されてはいませんから、そうなればそれぞれの隣り合う箇所との余剰の中での相互補完の接合形態は期待できず、微細な連携ミスでも安易な障害を誘発して全体の能力劣化の要因になってしまっているように感じます。そうした結果が大胆で力強い構成物が出現しない今の状況を生み出しているようにも思うのです。
かつての日本人の仕事技は細部での能力余剰に溢れ、それが高品質化の大きな要因になっていたことを思うと強い危機感を持ってしまいます。以前のプライドにあふれた職人気質を社会全体が保持していくことを諦めると、日本がずっと維持してきたこの高質の豊かな「こだわり」の世界が衰退していくだけだと思うのは私だけなのでしょうか。それに比べるとアートの世界は、その制作基準は本質的に外側にはなく作者側にあって、まずは作家主導の基準で制作を進めていけば良いと楽天的に構えようとしがちですが、しかしここでも無意識に制作枠を設定して限界内の仕事にしてしまってはアートも同じ問題に突き当たってしまいます。こうしたことを意識的に自覚し制作の中で実践することでしかアートの場所は出現しないように思うのです。

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