人が最初に平面というものを実際に認識したのはまずは海面や湖の表面、さらには目の前に広がる広大な荒野の平地などを目にした時だろうと思います。それ以外の岩や樹木などは有機的で不定形なものばかりだったはずなので、湖や海の水面は滑らかな幾何学形態として相対的に傑出して特別なものと見えていたはずなのです。そしてそこには当然のこととして視点者から遠ざかっていくような感覚の中で前方に広がりを伴った空間としてあったはずで、それはまさに遠近法の風景の中の一部分として認識されていたことでしょう。
そうした遠近法の構成物であったはずの平面的なものを人は垂直に倒立させ前面に対峙して眺めてみようと思いついたのは、他の生物と違って直立歩行という顔を地面から垂直に直立させて世界と対峙するという能力を得たことと連動しているはずです。それが人の顔前で正対して世界を把握しようとする欲求を生み出して、その結果として平面的な壁という人工的形態を生み出すことになったのです。それまでは自然界の中の水平面を真上から眺めることは(鳥でもない限り)困難だったのに、水平面を垂直の壁に移し替えることで鳥瞰的に眺めるのと同じ把握の仕方で全体を捉えることができるようになりました。こうした壁の機能的部分が絵画の在り方の前提になったはずで、人の想念が頭の中で浮遊していることを前提とすると、直立した人の前面に広がる鳥瞰的に把握しやすい意識的な対称物としてタブロー絵画は壁の上で浮遊した状態を象徴的に提示しようとしたのが起原になったのだと思い至ります。
絵画に関わらず人の眼前に広がる平面には鳥瞰的把握と同じ機能を見出せて、視覚に収まる全ての箇所が同時に等距離な存在対象として扱えることができて、そして全ての関係性が一目の中に収められて全体感の把握が可能な状態になる、これが二次元空間が持つ独自の機能的優位性です。三次元空間では視覚の把握では補いきれない隠れた未知覚な領域がいつも存在していて、視点の移動がない限り把握はいつも不完全のままに終始しています。この不完全な視覚把握をより補完したのが平面による視覚の全体把握なのだと考えれば、視覚把握にとって二次元平面はとても優位にできていると言えるでしょう。絵画はその優位性を核にして順然と発生してきたものに違いありません。壁の存在が人の身体の存在と対称化できるなら、床から浮いたように掲示される壁面上のタブロー絵画は身体の中の宙空に漂う人の想念と同じ関係性として実感できるのですから。
それなのにそんな特権とも言える二次元絵画の優位性を再度改めて三次元空間として意識してしまったことで劣等感を呼び覚まし、二次元空間に擬似的三次元とも呼べる遠近法的描写を表現技法として採用してしまったのでした。これは多分に絵画にとって限りにない後退現象にあるはずに違いなく、だから私には遠近法描写を伴った具象絵画は基本的には後退的形態に見えてしまうのです。ですから絵画の起源を考えてみるとき、現実空間の三次元の壁の中に空いた窓のような風景の擬態を存在根拠にする考え方は切実感として共鳴できません。それは多分に現実の窓枠と絵画の額の形態が類似して見えることによる連想から誘発された結果に過ぎないと見えてしまうからです。
考えてみると人が人工的に作り出した都市空間やプロダクトデザインにしても、基本の部分に何と平面要素が多いことでしょうか。そこには構成力学や経済性などの要因からくる効率性だけではなく、人が平面が持つ魔力性のようなものに魅了されてしまう何かがある結果なのかも知れません。そのことを強く意識しているのが絵画であるとするならば、これからの絵画も平面にこだわり続けていくのは当然の成り行きかもしれず、もしも絵画が将来において平面の場を離れてしまうときが来るとしたらその時はもう絵画自体が存在していない状況なのかもしれないのです。

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