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コラボレーションはミルクコーヒー?

 あるアーティストの友人とコラボレーションをしようということになって、その内容の検討を始めてみると、お互いの間で考え方の違いに少し戸惑うことになりました。

 そもそも他者と自分とは違う存在であるのだからコラボレーションにおいてお互いの考えが違うのは前提だと覚悟していたのですが(それがコラボレーション)、しかし私たちの間では「ミルクコーヒー」のあり方が是非の問題となったのでした。ここで言う「ミルクコーヒー」とはミルクとコーヒーが合体してミルクコーヒーになることの例えとしてあって、この場合はそれぞれの存在感が維持され並立されながら混合されることで融和が図られていることを意味しています。要は自身の存在は堅持されながら相手との調和を図ること、最近は一般的にコラボレーションというとこのようなイメージを意図することが多く、今回もそうしたイメージがお互いの間に立ちはだかってきたのでした。

 ところが私はそのような形態を初めから考えてもいなくて、もっとお互いが侵食し合うような濃密で乱暴的なものを求めていたのです。確かに今の世相を見れば、融合よりも対立が極端に際立って見えてきて、ことさら他者との融合の貴重さに意識的になっていますから、まずは温和な融合から入ろうとするのも理解できます。しかしアートには思う以上の力があることを私は信じていて、アーティストの間でならばもう少し濃密な融和関係が構築できるのではと淡い希望のようなものを持っていたのでした。私の中では、そのためにはお互いの個性が相手を乱暴に侵食してしまって、侵略的に相手のアイデンティティを揺り動かすことになってしまっても厭わないやり取りも範疇だと考えていたのです。普通ならここで対立が発生してそれが闘争へと発展して行く可能性を見てしまいますが、しかし私が考えるのはこの場所からこの事態をアート的発想でどう乗り越えていくかというまた別の可能性です。これは人にとって本質的に他者の内奥は分かり得ないのだということを前提にした冷静な発想になります。ここでは相手から提示された異質要素をとりあえず引き受けてみることにして、それを含む材料で自分自身の新たな再構築を心がけてみるようにするのです。

 アートには潜在的にこのような許容力があることを私は知っています。その時はこれまでの自分に固守することを回避して白紙の地点からの私の再構築を試みることとして、その結果が「ミルクコーヒー」のような並立した上での混合ではなくて、お互いの変容を孕んだ融合が果たされる可能性があると考えてみるのです。そうして果たされていこうとするのが私の考えるコラボレーションであって、新たな自分を発見し更新されていくことの一つの有効な方法論として私の前に存在しているのです。

 人の存在がいつも流動的最中にあると私は考えていますから、身体の細胞の一部がいつも新しいものに生まれ変わっていることで生の存続が可能となっていることを思うと、そうした更新の別様の一助としてコラボレーションという表現形態を考えてみるのも決して無謀なものとはならないでしょう。



 
 
 

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