突然の災害などに見舞われた時、この世界が私たちの思惑とは別の原理で作動していることを再認識させられます。世界があるいは大自然が人間の思惑で成り立っていないことは了解済みのはずなのに、私たちはどこかで自分たちが想定する原理で成り立っているはずだと思い込みたいようです。それは私たちがこの世界を本質的に未知なものなのだとどこかで直感していて、その不安感から逃れるために持とうとする虚勢なのかも知れません。
今私たちが手にしているおおよそが確実性に裏付けられているはずのこの世界は、これまでの人間の経験からのみ実証されてきた限られた狭い範囲の世界観に過ぎなくて、そうしたものを巧みに組み合わせることで私たちの社会は少しは確証があると見えてくるような、それは虚構の上に成り立つ堅丈そうなだけの妄想の風景なのでしよう。ですからそうした限定された世界観をはみ出す事態が起こった時、私たちは回避できない災害という別種の事態にして遭遇することにしているのです。
考えてみれば私たち人間の存在はこの世に生を受けた時点から不条理なもので、それは自身の意思にかかわらず行動を生きる時間と空間をこの世界の中に無理矢理与えられてしまっているとも捉えることができます。そして私たちは、誕生からしばらくすると私という個の中に自分自身を自問できる自意識という能力が生まれてきて、そんな自意識はこの世界の出現よりも遅れてやってきたために今ここに私が存在しているという根拠のようなものを取り逃しているのでした。
すなわちこの世界がなぜ今私の前にあるのかというその根拠を見出すことができないままに、今ここに存在してしまっている現実を不安で悲惨な状況として受け止めざるを得ない、そしてこの不安感の中で生き続けることは苦痛以外の何物でもなく、だからこそ、その苦痛を取り除くために、無根拠を打ち消すような確信に満ち溢れた虚構世界を私たちは無理矢理にでも作る必要があったのでした。
それが人類の歩んできた歴史の主体です。その過程は今も続いていて、それには科学や宗教や哲学、そして芸術までもがその活動に寄与してきました。そして彼らの多くは声高らかに世界が確信に近づいているはずだということを歌い上げてきたのでした。しかしここにきて冷静に世界の有り様を眺めてみれば世界の原理は人間のことなど何も考えていないことは明白です。人間の立場だけの利益は決して人間の思惑を超えたものにはなり得ませんから、やはりそれは人間の自分勝手な妄想なのだと自覚すべき事柄なのでした。だからといって、では人間は自然の一部分なのだと達観して自然と同化しようとしても、自意識を持ってしまった人間はやはり最終的には自分のことだけを考えるようにできているだけで、だからこの考えもやはり妄想の域を出ないことになるのでしょう。
ではどうすればいいのかと考えてみても即効薬のようなアイデアは今の私にはなくて、ただ確かなのは私たちはこれからもやはり私たちが作り出すこうした思惑の世界の中でしか生きていくことはできないという実態です。そしてそこで実践される世界とはやはり最終的には私たち人類の利益になることをやはり考えてしまう世界になるだけのことで、(それを私は人工世界と呼ぶことにしています。)このような人工世界しか実は私たちは作り出すことができないのだと思います。
それでもこの人工世界は人工であるがゆえに私たちの匙加減である程度の意思を反映させることが可能であるとも考えられて、その方向性によっては人類の未来の行き先が決まるような、そしてこの匙加減を間違えると人類滅亡のシナリオは当然の帰結となり得る代物でもあるようなのです。こうしたことを自覚できれば安易に「無限」に結びついたような「普遍」や「超越」に結びついた「絶対」などは不安の裏返しの強硬な虚妄に過ぎないように思えてきて、これらを力強く宣言するような芸術家や宗教家、あるいは科学者や政治家を胡散臭いと感じることはすこぶる理にかなっているように見えてきます。
私の芸術観もこうした虚妄に対する批判にあえて晒すことで鍛えられていくと捉え得るならば、たとえその結果が歯切れの悪い言説しか提示できなくなったとしてもせめて作家としての誠意だけは優先されたものになるはずだと最近はささやかに思えるようになりました。

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