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人は本質的にコンセプチュアル・アーティストなのです。

更新日:2024年6月24日

 人はまずは思考し想念を喚起させます。それは現実世界に対峙する事前の予測を促すもので、その後の現実世界での実体化のための準備作業になっています。ですから「頭の中で思考されたもの」とそれが「現実社会で実体化されたもの」との間には少なからず乖離が存在しているのが当然のことだったのです。多くの場合そのことを見過ごしてしまって、思考と現実体とを不用意に同じものと捉えてしまいがちですが、そのことに光を当て、こだわって意識させて見せたのがコンセプチュアル・アートなのでした。

 人間が持つ思考能力を「予測としての虚構性」として根気よくあぶり出して、不可避の本質なのだと実感させることをその意図としたのです。ここから改めて見えてきたことは、人は思考によって現実世界を把握しようとしてもそれを乗り越えてしまうような現実があるという姿でした。それなのに普段から思考とそれによってできた現実体とをどこかで同質だと判断してしまう油断が当たり前になってしまって、(人間の傲慢の源点はそこから始まったと言っても過言ではありません。)その結果、全ての人為的なものはこうした場所から発生してしまっているということに普段の私たちは見過ごしてしまいがちです。そのことはこれまでの長い人間の歴史の中で人為的な人工物しか実は人は作り出せていないという実態に目を背け続けていて、しかし最近の人為的なものごとの地球規模の暴走がそうした油断を許さなくなってきました。その反省からかここにきて以前の人為が抑制された世界に戻ることを考え始めていますが、しかしその対処をやはり人間の思考を駆使する限り大自然の在り方から離反するだけで安易に還元できるとも思えません。それではと奮起して大自然の形態を模倣したり、実現結果のデーターを大自然のものに近づけてみようとしてもそれは本質的に表面的な辻褄合わせ、単なる気休めとしかならないという現実も認めざるを得ないところまで私たちは追い込まれています。

 人間の思考が創出できるのは本質的に人為的に作り上げた「自然感」という情緒的なもので、そしてそうした情緒的なものに安易に置き換わることがよく見られる事例だとすると、このことを冷徹に直視して改めて本質から逃避しない思考が求められます。そしてそうした現実を直視することから、(それでもやはり人間はこの後に及んでも思考という能力を放棄することはできないのですから)これから先の私たちには一体何ができるのかを誠実に考えてみること、そのことを促しているのがコンセプチュアル・アートなのだと思います。

 そうして見ると、コンセプチュアル・アートは人間の負の本質を冷静に問おうとして、アートが持つ質疑の力を充二分に発揮しているものなのだということが改めてわかってきます。



 
 
 

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