私たちはいつもすべての在り方をくっきりと際立たせより存在感を強く確信できることを望んでいるかのようです。裏返して考えてみればそこには存在感の希薄さへの恐怖が潜在しています。それは自分自身の存在感に対する確信の希薄さに連動しているかのようです。
確かに自分自身がどのような理由で今のこの世界に存在しているのかは大きな謎として私たちの前に立ちはだかっています。そのことは不確かな存在意識としていつも私たちを不安の只中に突き落としています。それは生きていく上でとても苦しいことです。だから私たちが存在しているこの世界を「存在の確信」で埋め尽くしたいのではないのでしょうか。
そこで存在の必然を説明する理由探しが始まります。そうするためには論証による方法論が今のところ最も説得力があって、その論証を組み立てていくにはその構成部品は明確な存在領域を持ったものでなくてはなりません。でないと思考の精緻な組み立ての道筋を構成できないし、矛盾による却下を開示できないからです。それに何よりも私たちの日常の中では周囲にある物事がくっきりと際立って見えていれば物事が確実に存在しているような実感を感受できます。
こうして物事の存在の境界線を線を引いて区切っていくような認識は知らず知らずのうちに私たちは当然のように身につけてしまいました。しかしこの方法は果たして私たちの存在理由を納得させるだけの根拠になり得るものなのだろうかという疑問はどこかでいつも私を突き動かし続けています。

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