人の描画の始発点は線から始まるように見えます。それは子供が初めて筆記道具を持った時、最初にすることは線を記すことから始めるからです。(もちろんこれは筆記道具がそうした行為を誘発するように作られているとも言えなくもないのですが、それを当然のように道具をそのような形にしてしまったのもやはり人間の本質のようなものがそこにあるからなのでしょう。)そうして扱うことに慣れてくると、対象物をイメージできるようになってきて、そしてそれをまずは線で描くようになります。それは自分が意識した対象物を捉えようとしてそれ以外から分離するための境界線として機能させようとする線なのです。ここで認識された対象物は世界の中から分節されて独立した存在物として認識されていきます。これはまさしく言語が持つ機能と同じものとも言えて、絵を描くことと言語で表示することは結果的に同じ機能を共有していることになるのです。そのことは、絵の運命は図らずもそこで方向付けられてしまったのかもしれません。
線という存在は数学では長さだけがあって太さのようなものは持っていませんでしたから、そこにあるのは空間の中での位置性や場所性が最優先されていて、分節性はそれほど前面には出てこないものでした。それが人間のフィルターを通して見ると分離性が優先されてしまうようになって我々は線というものをそのようなものとして当然のように扱ってしまったのです。線の場所性を考えれば二点間を結ぶことに機能することもあるし、時間の経過を表す量として表現することもできます。そしてそうした線を描き重ねていけば当然面にもなりますから、線の持つ機能は思いの外多くの要素があるのです。だのになぜ私たちは線を分離する道具として優先させてしまったのでしょうか。それは私たちが言語という道具を持ってしまったことと関係づけられるかもしれません。線を描くことと言語が存在していたことが並立していたとすればその状況でこの両者の関係は宿命づけられていたのかもしれません。

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