日本語の散文において、私は特に長文の方によりイマジネィテブなものを感じて好感を持ってしまいます。しかし昨今では文章の内容把握をより明確にするためなのか(コンピュータの普及もその大きな一因のようですが、)簡潔で短いものが推奨されていてダラダラとした長い文章は悪文として批判の対象にすらなってしまっています。
例えば私が好きな吉田健一という小説家の文章などは、ページのほぼ一面全てが「、」読点で繋がれた長い文章になることもあって、そこでは前の文節が読点によって次の文節に持ち越され、何やら連歌の数珠つなぎのようなそのめくるめく空間に私は酔いしれることがしばしばなのです。
しかしこれが分かりにくい文章として多くの人たちからはすこぶる評判が芳しくないのです。こうした簡潔な日本語が好まれる気風には多分に西洋化を取り入れようと外国言語の合理的機能性を参照とする考え方によるものと推測されますが、しかしそのことが日本語の独自の空間性を希薄にしているように私には映るのです。
考えてみるに確かに英語などはまずは主語の次に結論が先に来て、その後にその説明が続くから、事がフェードアウトするように文章の起結が収まっていきます。それに比べて日本語の文章は最後の方に結論が来るため「。」句点は文字通り事の終決をさらに決定的にダメ押しとなって、その結果としてぶつ切りにされて終結してしまった文節の集合体という印象を醸し出し、ゆったりとした文章の大きな流れのようなものを欠落させてしまっています。これが私には気に入らないのです。
思えば古い日本の小説などを読むとかつての文章は何とダラダラとしたものだったのでしょう。そこには多くの余計なものが横合いから紛れ込んでくる感覚があって、それがすこぶる想像力を誘発して空間を豊かにしてくれているのでした。それはまさに目的地に最短距離で直行するのではなく、多くの道草をしながらゆったり到着することに似ているように感じさせます。
前述した小説家の吉田健一にしても、小説家になる以前、英国で遊学中の彼の英語は英国人でも驚くほどの伝統的で本格的な優れたものだったそうです。そうした日本語以外の言語を熟知する人物が再び日本語の世界に立ち戻ってきた時に、そこで展開される日本語はこれまでのものよりもっと鍛錬されて再構築されたものになっている可能性があって、いわばこれまでにない新種に変化した日本語の文章である期待感が出てくるのです。
その点で言えば村上春樹の文章もその例の中に入るものなのかも知れず、思えば彼の文章も登場した時には英語の翻訳文のようだと強烈に批判されてすこぶる評判が悪かったことを覚えています。それが今ではどうでしょう。確かに彼は長文を駆使する作家ではありませんが英語と日本語の間で模索をして新しい日本語の文章を確立させたやはり独創的な作家なのだと評価されています。彼の文体はシンプルではありますがその中にいつも道草を予感させる気配のようなものを漂わせていて、これが機能的合理性に終始しない独自の空気感を生むことになって、海外で翻訳されれば日本語を超えた独自の普遍性のようなものを獲得していったのです。
こうした結果を踏まえてみると、短文を好む今の日本の現状の中ででも長文の楽しみを放棄することなく保持していくことはかえって興味深い試みのようにも思えてきます。ですからこの私のブログの文章がこれからも簡潔性に乏しくダラダラとしたものが垣間見えたとしても多分にそうした気分がどこかで無邪気に反映されていると推測してもらえるならば少し嬉しく思うことでしょう。

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