バーチャルは日本語では擬似体験などの雰囲気で使われていて、そこには本物に対する偽物というような相対的二重構造の図式が見て取れます。この二重構造がバーチャルを実存そのものでないとする懐疑的なニュアンスを醸し出していて、そのことを批判する人たちの論拠になっているようです。しかし冷静に考えてみればこうした批判もこのような二重構造が確保されている限りにおいてのことで、それがなければ果たして成り立つものなのかという考えが顔を出してきます。そうした懐疑が言い当てているような現実が実は今の私たちの周りで進行していて、それはこれまでの人々が二重構造だと認識していたものを一重構造で見てしまう人たちが増えてきているという現状です。
例えば今の私たちの生活はコンピュータによる利便性にあふれています。そしてコンピュータによるシステムはその機構をブラックボックスにして私たちの前に姿を見せませんから、その表層の手触りだけを提供して抵抗感なく接触してくる結果、そうしたことを現実の生活として実感しているという日常が生み出されています。これはまさしく認識の一重構造(二重構造ではない)を醸し出す感覚として抗えない強力な存在感を持っています。こうしたことが現実ならば(これは私の実感から出てくる言葉ですが)もうそこにはすでに相対的視座によるバーチャルという概念も存在し得ないということで、そしてそれは現実とバーチャルの境目の区切りをつけることもできないということを意味しています。例えばそんな彼らにとってはAIによる数々の恩恵や今話題のメタバースやチャットGPTなども絵空事ではなくて現実そのものの実感であるはずで、世界はそうしたもので当然のように構成されているのだという世界観だけがあるように見えているはずなのです。
これまでの私たちには虚構と現実がどこかで別のものとして相対されている限りどのような感想を述べてもどこかで保証される世界がありましたが、しかし全てが一元化されて現実そのものとして転化が果たされてしまえば、その先には絶対的世界観の対立に、さらに言えばそうした相反する考えに対して最終的には排他的に対処してしまうしかないような世界が待ち構えていることが予想されます。現に今の情勢としてそうしたことがアメリカ型思考世界とヨーロッパ型思考世界との二大勢力の対立構造として出現していますし、そこには歴史的背景が文化の中に反映している結果のように思えますが、ではそのような現状を前にして日本に住む我々はどのような立場でこうしたことを考えていけば良いのでしょうか。日本の経済や産業界などは利益追求の考え方として積極的にアメリカ型合理主義に身を委ねようとするでしょうが、機能だけに特化した合理主義には本質的に乗り切れない日本人の心情は煮え切らない自分たちの姿をしばらくはまた見続けることになるのでしょうか。しかしこのようなことも基本的には個人がどのように考えるのかが問われる問題ですから、では私は表現者としてどのような位置に立って作品を制作していけばよいのかという判断に迫られます。
一重構造の立場としてか、あるいはそうしたことに批判的な二重構造の具現者としてか、あるいはそのどちらでもない別の認識の立場を模索する創造者としての立場なのか。この問題はこれからの表現者にとってもかなり本質的なものを孕んだ問題になってくる予感が働いています。

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