私自身の内側には多くの「すでに知ってしまった事柄」が占有しているような気分があります。というのも、私たちが思考しようとするときにはそうした「すでに知ってしまった事柄」を部品にして思考を構築しようとしますから、その場合その素材となる部品の身元が確かなものでないと明確な論理が立ち上がっていかないと感じられて(明確な結論が欲しい場合は尚更です。)そのためにも私たちはいつも「すでに知ってしまった事柄」をいつでも使用可能にしておくために優先的に内部に備蓄しているのでした。仮に私の中において得体が知れない事柄があった場合には、それは「未知のモノ」というカテゴリーとして種分けされることで出所が保証される手筈にもなっていて、そうして私たちの内側はいつも身元保証された事柄で満たされるようにできているのでした。そうしないことには私たち自身の存在の基盤が限りなく曖昧なものになってしまうからで、仮に無理をしてそうした「未知のモノ」の存在を許してしまうと精神の変調をきたす可能性すら想定される不安な事態となるからなのです。
こうしたことを前提にするならば「本当に新しくて凄いもの」は私の内部に存在するべき場所は無いように思われて、私にはそれらはいつも外部からやってくるような気がするのです。なぜならば「本当に新しくて凄いもの」は本質的に「未知のモノ」の塊のようなものだから私の内部での存在は不可能に思えてきます。だから「本当に新しくて凄いもの」はいつも私の思惑を超えて外側から不意に唐突な出現を果たすことになるのでした。そうした「未知のモノ」との遭遇を一度経験してみると、その時の感慨は誠に強烈で、再びそのような事態の再来を希求するようになってしまうのも無理もないことなのでしょう。
一般的にただ単に「心地良い」という感覚にはどこかで「すでに知ってしまった事柄」の再現や再確認の中にあることだと感知できてしまうと、「心地良い」と「本当に新しくて凄いもの」との間には隔絶した距離感があることが分かってしまって、このことに気がついた者だけが「未知のモノ」を好意的に捉えることができるのかもしれません。
しかしいつも気まぐれな「本当に新しくて凄いもの」をただ単に遭遇することを待っているだけではあまりにも無策過ぎて、でも私の意図を超えた外側からやってくる存在である相手に対してそれでもその遭遇をさらに誘発したいと願うならば、私の思惑に左右されない客観的な力が必要だと考えるのも必然の成り行きでした。それには作用結果だけが期待できるシステム化されたものが最適のはずで、それが私の場合は「流動の絵画(この中には継続絵画・結合絵画が含まれています)」という方法論になったのでした。アートの世界はまさしくこうした現象の全てを総合的に体現しようとする挑発される行為なのだと最近の私は痛感しているのです。

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