top of page

目的を持たないことを志向する。

更新日:2024年6月24日

 志向するもののほとんどは目的を持つことになります。あるいはまた何かのために成そうとすることも目的を持つことの範疇に含まれるように思われます。ではこうしたこととは反対に「目的を持たないことを志向する」とはどういった事態になるのでしょうか。こうして考えを押し進めようとすると、どこかで何か奇妙な感覚が漂ってきます。それは「目的を持たないこと」は思考で誘発される範囲からいつも逸脱していることなのでそれを改めて意識の対象にしようとすれば何かぎこちなくなって奇妙な違和感が発生してしまうからなのでしょう。でもこの奇妙な違和感の中にこそ何か重要なものが潜んでいるように私は直感したのです。

 改めて考えてみれば確かに志向と目的が一体としてあれば行動する裏付けもあって躊躇なく力を発揮できそうな気がしてきて、こうした態度はとても有益な社会の行動原理のようにも思えてきます。でも反笑的に考えてみるとこれはそうした行動を促すための根拠を設置する装置だとも考えることもできて、疾走する馬の前に好物の人参をぶら下げられて走らされているようにも見えてしまいます。有用性だけに裏付けられたことにしか選択肢が持てなくて、そしてその志向の先の目的が怪しいものだと判断がつかないことになってしまうならばもうなす術はありません。もしもこうした構図からあえて抜け出すことを考えようとすると(もちろんそれは私なのですが)目的を持たない志向性を意識することがとても有効な方法だと改めて見え始めてきたのでした。ただしこの気づきを得るためにはそれ以前に目的を志向する方法の実践経験が必要で、でないと目的を志向しないという反転した実感を切実に味わうことはできないようになっているらしいのです。

 こうして考えていくと実はアートというのはそうしたことを体現できる数少ない場所だったのだということにいつしか気がついていたのでした。社会の中で有用原理から要請されてくる多くのものとはどこかで一線を画するアートは、その無用性によって存在感を発揮しています。それがアートが本来持っている独自の力なのだと察知することができて、本質的な自由につながるアートの行動原理の一つなのだと最近になって強く実感できるようになってきたように思うのです。





 
 
 

Commentaires


私にメッセージ / Communicate to me

​名 / Your name

あなたのメールアドレス 

Your mail address

あなたのメッセージを入力 / Enter your message

bottom of page