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ひょっとして絵画には指向性は必要ないのかもしれない。

更新日:2024年6月24日

 絵画が表現を考えて指向性を持とうとするのは一般的な形ではあるけれど、私の場合はできるだけその指向性を逸棄するよう勤めています。なぜならそうした指向性が時として窮屈な縛りになるとも思えてしまって、そんな指向性を設置するためには先の方に目的とする何かを必要とするはずで、それが今ここにある場を希薄にさせてしまうように感じてしまうからです。現状を持ち越して先にある何かに期待するのは報酬を得るために今を虚しく行動している姿に似ていて、そこには何か労働に似た空虚な空気感を嗅ぎつけてしまいます。そうした機動力を発生させるために報酬を用意するということは無条件ではそのような力はないとする考えに立つもので、機動する力はいつも常態化していると考えたい私には無念さが残るのです。

 では私が現状の場をそこまで尊重して一体何を見出そうとしているのかといえば、それはその場に発生してくる何かをその時点で感応するように受け取ろうとすること、そうしたものは先送りの過程では確実に手に入らないもの達で、それはたぶん絵画における「描く喜び」のようなものだと感じることなのでしょう。

「絵画を描く喜び」がそれだけで自立したものとして見れるか否かはかなり本質的な問題ですが、最近の私の考えでは自立してそれはあることだと確かに信じることができて、色々な外部からの条件や援助などがなかったとしても「描く喜び」は作家個人の側から一方的に発生してくる場所性を持ったものだと思えるのです。

 だからといって絵画が指向性を持とうとすることを押し並べて悪いことのように考えているわけではなくて、指向性を持つことは作品が作家側の個人から外の世界に出ていこうとすることですから、それはそれとした毅然とした意味があることだと思えます。そしてその中での別種の「制作の喜び」というものも確実にあるはずで、最近の私はこうして際立ってくる「描く喜び」と「制作の喜び」が異種なものとして自覚されてきたことに屹然としたものを感じているのです。この両者が私の作品の中でその存在感をより高め、せめぎ合ってさらなる緊張感を増大させてくれるとすれば、私の絵画はよりワクワクとした今以上の何かを垣間見せてくれるかもしれません。



 
 
 

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