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表現の出所が見えないということ。

更新日:2024年6月24日

 表現物の発想の出所や理由などが見えないということは、実に得体が知れなくて唐突で不気味に感じてしまいます。でもどこかでそのことが強烈にミステリアスなものになって深い感応に襲われてしまう場合があることも事実です。それはまるで対象物が何も身につけず自身の「存在」だけを直裁に露呈させていて、その姿を高揚感を持って捉えている私の感慨であったはずに違いなく、そうしたことを一度でも経験したことのある表現者ならばこのような表現形態を是非とも我が物にしたいと願うことは誠に素直な反応であると言えるでしょう。だからといってその効果を狙ってそのようなものを意図的に作ろうとしても単なる思いつきの範囲にとどまって想像以上に困難なものだと思い知ることが常です。なぜなら発想するという行為の中には元となる何らかの理由や影響の出所などの要素が必ず控えていて、その要素なしでは本来は成り立ち得ないのが一般的な形だからです。それならばと手っ取り早くサイコロの目の偶然さに頼って意図からの離脱を計る方法を試みたとしても切実さの度合いでは希薄なものになってしまって、発想の出所を意図的に見せないようにすることは思いのほか至難なことだと気づかされます。

 ではこうした方法以外で、表現の理由や出所を感じさせないようにするには具体的にはどのようなケースがあるのでしょうか。たとえばそこに出現する表現の力があまりにも強烈なために背後にある理由や出所がかき消されてしまっている場合をまずは思い付くかも知れません。そこではその作品のオリジナリティーの強烈さだけが前面にやってきていて、観る者にはその作品が持つ独自の必然の根拠だけが存在しているかのように見えてしまっているからです。

 例を挙げるとキュビズムのピカソには出所としてはセザンヌの多視点の絵画があったはずだし、フランク・ステラの立体絵画にはピカソの多面絵画が背後に潜んでいたはずで、しかしそれぞれの表現が強烈に個性的なために、それぞれは自立した独自の作品に見えてしまっているのでした。

 こうした出所を覆い隠す方法があるとするなら、これ以外の方法も当然あるはずで、私の場合は、歌舞伎の黒子のように、作品の背後に理由や出所は見えているのだけれどあえて「存在しない状態」にあるような成り立ち方で作品を存在させる(具体的には「継続絵画」や「結合絵画」がそれを指しています。)ことも可能であると考え得たのでした。

 表現物の発想の出所や理由などを見せないようにすることはやはり作品表現を強くするためには極めて重要な要素になることは確かなようではあるけれど、さらにまた別な認識として、こうしたことが抽象絵画のコアの部分に確実に繋がっているはずだという確信がおのずと見えてきたことに新たな導きのようなものを感じたのでした。




 
 
 

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