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記憶の遠近法は平面に還る。

更新日:2024年6月24日

 人の記憶は遠近法のような形態を持っています。

それは最新のものは鮮明で遠くにある過去のものほど曖昧になる傾向があって、そうした記憶をさらに正確な記録(記録には記憶よりより正確な実在感があります。)にしようとすれば、人の脳内の占有面積の限りがあるため創作による虚構の助けを借りなければならないようになっています。そんな記憶を人は意識的に活用することで生きていく知恵として未来予測などの糧にしてきましたが、しかし最近では身体外にハードディスクなどの新たな記憶媒体を設定することができるようになって脳内を占有していた記憶領域に負担をかけなくても、そして脳内に記憶を維持することに躍起とならなくても、記憶との一体化が不必要な純粋な感応だけを機能させる場が可能となってきました。(こうした現況を端的に表す例としては昨今のコンピュータの普及によって漢字が読めても実際に書けなくなっている事態を見ても明らかですが、このことに対する是非についての私の考えはここではこの現状を事実として認めるだけにとどめておこうと思います。)

 そうした形態の先では感応範囲から逸脱する記憶は体外装置(ハードディスクなど)の中に収納すればいいという安心感に裏付けられた隔絶感を生み出して、これまでの遠近法的な深度とは異なった記憶の濃淡の違いだけによる水墨画の画面ような感応情景の出現は必然なものとなりました。そうであるのなら遠近法的な直線的に把握されていた時間記憶の感覚も即時的な現在性の濃淡だけによる面的な集約形態になってしまって、時間と空間が同一平面上に内包されてしまったかのような様相に変貌してしまいます。さらには遠近法的な記憶の感触は身体の中にどうしても残り続けることがあったとしても、それらは創作の虚構の片鱗として残像という形で表出されて記憶の濃淡の中に紛ませることで空間の整合性は維持されることでしょう。

 このような事態こそがまさしく絵画が持つ空間性のあり方と重なるように思えてきて、こうした私の妄想?を今の絵画の現況につき合わせてみれば、さらなる興味深い思考に加速させてくれるようで、これからの絵画のあり方を考える上での新たな視点を与えてもらったように見えてきました。はたして今出現しつつあるこれらの新様態がこれからの絵画の存在をより鮮明に見せてくれるようになるか、逆により埋没したように見せられてしまうのかは今後の絵画の振る舞い方次第でその結果が定まっていくように思えてきます。

 振り返ればこれまでにも絵画は画面の中の空間の遠近法の扱いに心を砕いてきましたが、ここにきてこれまでにあった「記憶の遠近法」も新たな平面性を獲得する局面を得たことで新しい活力を喚起する要因となる可能性が出てきました。それはかつて写真という新技術が出てきた時の危機感の再来のような、絵画は今、大変興味深い状況の中にあるとも考えられます。



 
 
 

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