[ 0÷0 ] の解が [1] なのか [0] なのかは私が若い時から持ち続けてきた設問でした。
ところが最近、どうもそれは [1] ではないかと思うようになってきました。私が得たこの解に数学の専門的裏付けが希薄だとしても、私の中で考えを進めていけばどうしてもそのような結論に至るしかないようなのです。
それにはまずは [0] がどのようなものであるかを認識する必要がありました。そもそも [0] は存在するものなのか、あるいは存在しないものなのか、ここには存在に関する考察が求められます。昔から存在は哲学の分野でも大きな課題の一つでした。そして [0] の発祥の地である古代のインドでも『有る」と「無い」ことをめぐる問題は大きな難問の一つでもありました。
こうした [0] の存在をめぐる疑問を持ち続けていた私は最近になって、やはり人間は「存在する」ということが前提となっている世界の中に生きているだけの存在なのだと思うようになりました。たとえ「存在しない」ことを考えようとしても、それは存在することの反意的な域を出るものではなくて、すでにあった「存在」を否定しているだけにしか過ぎず、「存在が初めから無い」ような世界では私たちが認識できる何事も成立しないのだと考えるようになってきたのです。ですから人間はやはり存在することを前提としなくては「無い」という世界は認識できないのではないかと思うようになってしまいました。だから私は「存在が初めから無い」ような世界を頭の中で想像しようとしても、想像できるのは「存在が無い状態が存在している世界」でしかなくて、それ以外は不可能だと考えるようになってしまったのです。
思えば私たちは生まれてきた段階からこの世界は物事が「存在」している世界でした。
それ以外の世界は私たちには選択肢は与えられてなくて、言ってみればそれが私たちの世界の限界と言えてしまえるものだったのかもしれません。そうした世界観が人間の認識に限界があることを暗示してくれて、これまで私が考えていた「絶対」や「普遍」、あるいは「無限」や「永遠」などがその限界の外にあるものかもしれないと気付かせてくれたのでした。これは私が持ってきた芸術に対する考え方に修正を求めてくるものになりました。
私は若い頃から自ら制作する作品の中に「絶対」とか「普遍」などの概念をどこか憧れを含ませた力強いものとして抱えていたように思います。その憧れの根拠のようなものがすっかり色褪せて見えてくるように最近は感じてしまいます。しかしそのことによって反対に人間のイマジネーションの限界が見えたことで随分と気持ちが楽になりました。無理やり不可能な世界に追い込んで硬直したような世界に手を染めなくても良いわけなのですから。そしてここには逃避ではなく実直に対峙した結果の世界が広がっているように私には見えています。
こうした考えはもちろん私の個人的なものですからどこまで客観的かは保証の限りではありませんが、「普遍」などに信頼性を失ってしまった今の私にはその程度の扱いで事が足りるかとも思われます。そして [0] の存在を存在界の中だけでの「無存在」と考えてしまう私には、存在する同じ値のもの同士の割算としては当然の結果としての解 [1] となってしまって、それどころか「初めから存在のない世界」では割り算自体が存在することができないかもしれず、そこでは当然のこととして [0] という解は導き出せ得ないと思ってしまったのです。

コメント