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表現様式に潜む光と影

  • Masaru KUROSE
  • 2023年4月3日
  • 読了時間: 2分

更新日:2024年7月31日

 私は作家が自身で選んだ表現様式にどう向き合っているのかに興味があります。たとえその様式の浅瀬にいるからといって軽快に跳ね回っているだけでは心苦しいし、かといってどっぷりと浸かって深海魚のようにその水圧に押しつぶされそうになりながら鈍い動きに終始しているのも情けないと思うのです。では水深をどのあたりにするのかといえば、海流が一番激しくうねっている水域はプランクトンが最も豊富で活力に満ちています。そのあたりを身を挺して乗り切っていけば見知らぬ地域に運んでくれる可能性が高く私には丁度良いように思います。

 様式は表現するためには必須の受け皿ですがその取り扱いを間違えれば不自由な制約に転化してしまう厄介ものです。ジャズを例にとればかってフリージャズの全盛期があって、それが登場してきた時は本当に名前の通り自由でこれほどのすごい衝撃的で新鮮な音楽はなかったように思えたのです。ところが今日ではそれが様式として落ち着いてしまって、そうなれば自由な表現はどこにもなくそれは形だけの残骸のように存在するだけのものとなりました。それなのに、もしもいまだにそこには自由で新鮮な表現があると思い込んでプレイしているジャズマンがいるとしたら、発生時にこそそこにあったはずの精神はすでに蒸発してしまっていることをもっと自覚していなければなりません。

 これは何もジャズの世界だけに限ったことではなくて、私が慣れ親しんでいる美術の世界でも、コンテンポラリィ・アートだと思って試みている場合でも、それが単なる様式としてのジャンルのひとつだと思って捉えている限りは、そこには本来の精神は蒸発してしまっていることに気がついていないといけないのです。そうでないとそれは単なる形式を守るだけの制約にしか過ぎないことになってしまいます。コンテンポラリィ・アートは様式化に抗うことはあっても表現の保身に費やすものではなかったはずなのですから。

 アーティストにとって、表現様式に潜む光と影にはもっと敏感になっていてもいいのではないかと最近になって特に思うようになりました。


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